パラダイム・ラプソディ

 

 

 

 

 

今月は2週連続でイベント出展があり、先週末は故郷・東海市での開催でした

 

30年間生まれ育った地には、思い出がいっぱい詰まっていて

 

毎年参加をさせていただく度、感慨深くなり、誇りに感じています

 

駆けつけていただいたり、メッセージでエールを送ってくださったり、作品をご購入いただいたり

 

全て日々の励みに繋がっております

 

皆さま、本当にありがとうございました

 

 

 

 

個展や企画展が増えてきた ここ数年

 

去年から少しずつ出展を控え、屋内でじっくりご覧いただく機会を増やしています

 

 

お店やギャラリーの部屋という空間で

 

店主さんとともに創り上げるショータイム

 

外とは一味、二味も違う楽しみがあり、その緊張や高揚感は病みつきになります

 

 

最近では、有難いことに個展のお話をよくいただき

 

今年は過去最高の5回

 

 

” 個展 ”は、音楽でいうワンマン(やったことありませんが...)と似ているんじゃないかと、勝手に捉えています

 

 

もちろん時間の長さは極端に異なり、一瞬か長期間か別物といえばそうです

 

培ってきた経験やスキル、パフォーマンスを披露し

 

いかに最大限の自分を放出し楽しんでいただけるのか

 

それは己ひとりが背負う重圧であり

 

会期がスタートしてからは尚拍車がかかります

 

 

多くの方にお越しいただけるだろうか、

 

納得のいく作品を並べられるだろうか、空間を創りこめるのか

 

個展の醍醐味はもう一つ

 

店主さんと心の距離をグッと縮め、


いかに濃密な打ち合わせやお互いの思いを投げ、分かち合えるか

 

 

場所やそこで立つ方との関係性を大切にしている私にとって、

 

貴重な機会をいただくにあたり


最も完成していなければならない、信頼関係

 

展示を機に終了後、より固くなるのもまた好きです

 

 

曝すということを私はよくします

 

惜しみなく、過去のこと、今、思い描く将来やヴィジョンを伝え

 

人間像がどう写るか、私にはわかりませんが

 

わかった気になっていることが一番恐ろしい

 

 

 

相手のことが知りたいと思ったら


まずは私から自分を露わにするケースが常な性分なのです

 

一方的に詮索しようとか、情報を得ようとする前に

 

壁や詰まりのようなものをやわらかく解したいからだと思います

 

 

 

 

制作意欲の火種やくすぶりはどこにあるかというと

 

この現代社会にあります

 

今この時代に生き、生かされ、

 

良いことも、そう思えない反発心も多くあるのは、ごく自然ではないでしょうか

 

 

 

なかでも大きく私を占めているのは、命の尊さとジェンダーについて

 

 

学生時代は地元の芸術大学に通い、デザインを学びました

 

当時から、頭に浮かんだり、手を動かすといつも行き着いていたのは

 

男女性差、流行への反発、戦争、時代や歴史背景、環境問題でした

 

 

 

 

人という生き物が好きです

 

文明を築き、時代が生まれ形を変え、移り行き


人類が存続する限り繁栄は永らえるでしょう

 

進化と退化は常に共にあり、退化は進化に必要なもの

 

時に、過ぎたことが地球を傷つけ、はたまた自分たちへも危害が及び

 

それが問題視される数々の要因にもなる

 

 

 

こうして綴ると、どうしても” きれいごと ”に見えてしまう気がします

 

文字に起こさなければ、表面化しなくては認知も理解もされない

 

恨み役を買って出て、というと格好つけてるみたいで癪ですが


そんなふうで全然構わないです

 

 

 

...どんどん文字がヒートアップしそうなので少し落ち着きます

 

 

 

ジェンダーと聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか

 

私自身が常日頃 気になってしょうがないというか、何なんだと凝視しているのは

 

言葉のセクシャリティです

 

普段何気ない会話に多く登場する、日本語 漢字の性差別

 

先人がそうであったというのを色濃く、それも身近に感じられる一つではないかと

 

 

 

ざっと並べると、、

 

 

嫁 姑 婿 奴 嫉妬 始 嫌 嬲 好 婚姻

 

 

 

私自身の近い出来事で例えるなら結婚があります

 

「旦那」「ご主人」  と相方

 

「奥さん」「お嫁ちゃん」  と私は呼ばれます

 

 

...なんて、違和感のオンパレード

 

 

ふたりともに対等でありたいというのに

 

嫁にいったわけでもなければ、主でもなく

 

当たり前のように常用される言葉たちが、あまりに不自然でなりません

 

できる限り使い回さないよう心掛けているものの

 

ケースバイケースで、周囲に合わせなければならないこともしばしば

 

 

 

 

 

私は相方を ” 夫 ” 、彼は ” 妻 ”  と呼び合っています

 

 

 

言葉は力あるもので、魂が宿るといいます

 

軽いものかもしれませんが、これから生涯何十、何百と発していくのでしょう

 

常識的に使われる言葉には、差別的用語が無数に潜んでいる

 

時代は移りゆくのに、言語はジェンダーギャップを広げるばかり

 

問題だと感じる人はどれだけいるでしょうか

 

時代の使い回しは不要

 

言葉も移り行かねばならないと危惧しています

 

 

ちょっとしたことから気をつけていければ、積み重ねていけば変化は生まれるはずです

 

 

 

この話の流れのついでに、最近気になることの断片を

 

 

 

この頃メディアで自身のセクシャリティをカムアウト、オープンにする方が増えてきました

 

オネェやオカマという言葉、また存在はだいぶ身近になってきた

 

 

...ともし感じているのだとしたら、まだまだメディアや大衆的目線は偏っています

 

 

なぜ、男性のセクシャリティばかり表に出るのでしょう

 

女装、可愛いものが好き、しなやかな体のライン・言葉選び、、どれも男性です

 

それもネタにしているかのよう

 

 

 

男装している方を瞬時にイメージできますか

 

女性で男性寄りな方、どちらでもある方、どちらでもない方を

 

テレビで確認できたことがありません

 

ごく稀にドキュメンタリーで見かける程度です

 

 

 

「 LGBTQ 」の 「 G 」しかまだ受け入れられ始めていないこの国の社会を、危機的に感じています

 

 

だって、自ら「そうである」と明かす人は多くないからです

 

 

恋愛は異性を好きになるものだとするとして、わざわざ「男が好き」と一人一人が断言しているでしょうか

 

 

「女の子大好き!」と声を張る方もなかにはいるでしょうが、それはさて置き

 

 

同じようにして、LGBTQに属される方もわざわざ打ち明ける必要性はなく

 

ただ人として、誰とも変わらず同じくして生きているだけなのです

 

 

つい最近、kemioさんが自身のエッセイ本を発売しました

 

頷けることが多々あり、性というフィルターは余計なものだとつくづく感じさせられます

 

 

...これらについてはまた後日

 

 

人が、人らしくあるためには、時に歩み寄り理解し合うことが必要

 

時代は流れていません 流れているのは人

 

人が、時代を流している

 

 

社会という時代のステージへ、すべての人に立つ価値がある

 

 

 

 

 

 

[ 写真 ]

 

2018年秋に行ったオーストラリアにて、フムスの虜に

 

パースのカフェで、初めてフムスを食し覚醒したのが事の発端

 

スーパーであらゆる種類を見かけ、買ってはホテルで試食、日本へも持ち帰る

 

街中でビーガン料理をよく目撃したのも印象的だった